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映画「天気の子」を観た感想【自分が抱いた感情の理由】

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映画「天気の子」を観てきました。

今回はその感想です。

 

注意!!

完全なネタバレになるので、映画を観ていない人は読まないでください!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では書いていきます。

 

 

シンプルなストーリーのおかげで美しい映像に集中できる

天気の子は、感想を見ると賛否両論ありますが、僕はとても面白かったです。エンディングで帆高と陽菜が選んだ「たとえ永遠の雨であっても君を選ぶ」という選択は、個人的にとても好きなエンディングでした。

ストーリーは、天気の世界と地上の世界を繋ぐ天気の巫女となったヒロインの陽菜と、窮屈に感じていた島から抜け出し東京に来た主人公の帆高を巡るストーリーで、二人が出会い、仲良くなり、引き裂かれ、そしてまた再び結びつくというものです。

ストーリーの展開がシンプルなので、いい意味でエキサイティングしないで済み、安心してこの美しい映画の映像と、魅力的に動くキャラクターを観ることができました。

とにかく風景の描写がすごいです。知っている東京の街がたくさん出て来ますが、本当にその街の風景と空気感で、あまりにも自然だからどんどん映画に没入していく気がしました。

特に僕の好きなシーンは、陽菜がビルの上から祈って雨だった天気がどんどん晴れていくシーンです。高いところから見る街が本当に綺麗で、ずっと観ていたいと思ってしまうほどでした。

エンディングで感じる儚さと二人が遠くに行ってしまったような感覚

見終わった時に、僕の頭と心はすごくいいエンディングだと思っているのですが、それでも、抱き合う二人を見ながら、どこか二人だけでとても遠くに行ってしまったような終わり方のように感じました。それがなんなのか、映画を見終わった後もずっと考えてしまいました。

考えた時、この違和感の正体はこれかな?というのがあったので、ここからは物語の構図を順に整理しながら自分の意見を述べたいと思います。

不自由な世界を生きる少年少女と彼らを縛りつける大人の社会という構図

この物語で根底にあるのは、誰もが自分ではどうすることもできない不自由を背負っており、その不自由と折り合いをつけたり、時に抵抗する対立の構図です。それは止まない天気であり、未成年という肩書きであり、家族、就活、社会などです。

帆高と陽菜は、中学生だということで、ことごとく社会の理不尽に立ち塞がれます。帆高は上京したのは良いけれど、身分証もなく仕事を見つけることができず、お金もないために野宿しようとするも、それすらも警察の補導されかけて、居場所すらままなりません。未成年は普通の大人なら当然の事ができないのです。

陽菜は、母を亡くしたために、自分で稼がなくてはなりません。そのために彼女は年齢をごまかして働いていました。それでも、児童相談所が弟との暮らしを問題視しており、彼女は弟と離れてしまうことに強い恐怖を持っています。

帆高を探しに来た警察に「私たちは誰にも迷惑をかけていません」と言ったり、天気の最後の仕事で、ベンチで夏美に「早く大人になりたいです」と言っているのが、なんで年齢のせいでこんなに苦労しなくてはならないのか?という彼女の心情を表しています。

彼らは、自分たちの力で生きていきたいのに社会がそれを許してくれない状態なのです。

こうした自分ではどうしようもない様々な問題を登場人物は抱えています。

天気を操る力

そんな無力な少女には、実は「天気を操る能力」が授けられていました。

この「天気」という、普通なら誰にもコントロールできない能力が、無力な少年少女の手の中に握られていることが、この映画の独特、というか不思議なバランスを作っています。

巫女は誰かの願いを聞き祈る存在

実は天気を晴れにする力は、天気の巫女として人柱になる運命も背負ってしまうわけですが、そう考えてみると、陽菜は天気の晴れを祈る時は必ず誰かの願いでした。つまり、彼女は巫女としての素質があり、その行いはまさに巫女そのものでした。

一番最初に天気の能力を身につける時のきっかけには母のために祈り、仕事して稼ぐ時には依頼者の願いを受けて。そして、彼女がラブホテルで消えてしまったときは、大好きな帆高の願いを聞いてでした。

だから、空で帆高と陽菜が一緒に地上に落ちているとき、帆高が「これからは自分のために祈って」という言葉はその天気の巫女の役割の放棄を意味しており、自分のために生きるという選択でした。そして彼女は自分のために祈る、つまり天気の巫女としての役割を放棄したのです。

単純な少年少女と、大切な順番が変えられなくなった大人

帆高をバイトとして雇っていた圭介ですが、警察が事情聴取に来た後に、彼を厄介払いしました。それは心では良いことではないと思っていたけれど、娘のことを考えての行動でした。それ正しいことではないとわかっているから、自分で「大人になると大切な順番って変えられなくなっちまうんだな」と言っています。これを聞いて夏美はバカじゃないの?というのです。それでも、圭介に天気の巫女の話を陽菜に話したことを指摘された時に、「じゃあどうすればよかったの?」と聞いています。これは、大人になればなるほど複雑で、どんどん何が大切かがわからなくなってしまうという描写だと思います。

一方、帆高と陽菜は優先順位がとてもシンプルで、大切なものがわかっていて、それでいて彼と彼女のためならどんなものを差し置いても相手を選ぶのです。それが結局永遠の雨との引き換えであっても、それは変わらないのです。

大人的な考えの拒否

で、最初に述べた、私が感じた二人だけで遠くに行ってしまったような、置いてけぼりを食ったようなエンディングの感覚は、このあたりから来ているんじゃないのかなということです。

事件から3年後、少年と少女の言うなれば身勝手の行動によって、東京の天気は永遠に雨になり、以前に天気の仕事を依頼したおばあさんは昔からの家からアパートに引っ越しています。それを負い目に感じた帆高が謝った時に、「何を謝る必要があるのか。昔は東京も海だった。それに戻っただけ」という話をします。

また、その前には圭介の「お前らのせいでこうなったなんて、そんな偉そうな考えもつな」といいます。また、東京に住んでいる人は船での通勤をしたりととてもたくましく生きているのです。これが、とても大人的な説得の形として存在し、主人公の心にも迫ります。

そして、彼女が空に飛んでいってしまいそうになったあの坂道を登る途中、帆高は陽菜になんて言おうかと悩みます。その途中では、圭介やおばあさんに言われた「自分たちにはどうしようもない関係ない話だったんだよ」とかそういう言うなれば「大人」な反応を考えていたわけです。

ところが、坂道を登りきった時、陽菜が何かを祈るその姿を見た時に、彼は衝撃的な感情を持って、自分たちの選択が世界の運命を変えたこと、そしてその事実を受け止めて生きていくことを決意しました。自らに言い訳することを拒否したのです。それはつまり、大人的な考えやある種の諦観の世界へ進むことを拒否した瞬間であり、二人が二人のまま変わらずにこれからも大人的なズルさを持たずに、今まで通りの心を大切にしながらまっすぐに生きていくの決意の瞬間でした。

このラストの決意の描写が、圭介やおばあさんの意見を聞いてそうだよなと思って観ている僕ら大人の手を最後に払って、二人で歩いていく姿を見せ付けられたようで、既に大人的な感覚になってしまった僕には二人がこちらには来ずに遠くに行ってしまったように感じたのだと思います。最後まで二人は素敵な二人なのです。

 

とても美しく、少年と少女の強い意志と決意を描いた素晴らしい映画でした。

 

終わり。

 

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